マカラーニャの森は、夜が美しい。

ほとんどの人々は、魔物を恐れて近づこうとしないが、実は魔物の出没する場所と時期はだいたい決まっているから、それを外しさえすれば比較的楽に歩けるのだ。とはいえ、経験上それがわかるまでには、私も結構危い目に遭ったものだが。

危険は人生に刺激とスリルを与えてくれる。

寺院内部の権力闘争やしがらみは、それだけで充分スリルを伴うものだが、私は人より遥かに順調にそれをすり抜けてきた。お偉方に何の縁故もないどころか、両親の顔も知らない孤児だった私だが、エボンはそれに勝るものを与えてくださった。誰もが感嘆する天賦の魔力、明晰な頭脳、そして人並み外れて優れた容姿・・・。これだけ揃えば、どんな人間でもこの世で手に入らないものを探す方が難しいに違いない。

勿論、ここに至るまでには敵も多く作ったし、トラブルも数え切れないほどあったが、運はいつも私の味方だった。今や上層部の僧官たちは争って私を引き立てたがり、総老師マイカ様の覚えもめでたい。間もなく私は地方の寺院へ祭司長として赴任することになっている。それもあまりに順当な出世への風当たりを避けるためで、ほどなくベベルに戻り、数年の後には老師の座に着くことになろう。

財産への執着を感じたことはないが、欲しいものはいつでも得られるのだから、その必要もなかったといえる。私のものになりたいと望む女(男もだが)は、履いて捨てるほどいた。人恋しい夜は、気まぐれに相手を選び一夜の享楽に興じた。人の心を玩ぶような真似もしたが、大半のことは私の能力に免じて許された。

それにも飽きると、スリルを求めてマカラーニャの森をひとり彷徨った。幻光虫が夜も木々を妖しく照らす様は、何時魔物に遭うかわからぬ危うさと相まって、この世のものとも思えぬほど美しい。特に森に点在する泉は、幻光虫が溶け込んでいくらかねっとりとする透明な水を湛えており、水浴しながら明滅する光の渦を眺めていると、素肌に纏わりつく水のやわらかな刺激と視覚の効果が相まって、恍惚とした気分に浸ることができるのだった。


その宵、私が小さな泉を見つけたのは全くの偶然からだった。

生い茂る木々が入り口を隠していたので今まで気付かなかったのだが、ちょうど通りかかったったときに人の気配を感じたのだ。自分以外にそのようなもの好きがいることに興味を覚え、そっと茂る葉を押しのけて覗いてみた。光る水面がまず目に入り、その横で一心不乱に大剣を振るう人影が見えた。幾分細身ではあるが、体格からするとおそらく男であろう。かなりの重量がありそうな剣がきらめく度に、無駄のない引き締まった筋肉が躍動する。その動きは、剣の心得のない私から見ても、明らかに理に叶ったものであり、優雅でさえあった。ときどきはっとするほど白い肌に汗が光る。彼をもっと近くで見てみたいという衝動にかられ、私は木陰から泉のほとりへと足を踏み出した。

木々のざわめく音に、男ははっと動きを止めこちらを振り返った。幻光虫の灯りが、彼の顔を照らし出す。まだ若い、少年からようやく青年になりかけた、まだ幾分幼さを残す顔。整った目鼻立ちの白い頬と額には、汗に濡れた黒い髪が幾筋か張り付いていた。突然の侵入者に、鳶色の目が大きく見開かれている。

「すまない。脅かしてしまったようだね。」

私の声に我に返ったかのように、その表情がぎこちなく動き始める。

「あ・・・いえ・・・、ブラスカ様・・・でいらっしゃいますか?」

今や寺院では飛ぶ鳥を落とす勢いと言われる私の名を彼が知っていたことは、別に意外ではなかった。

「そうだよ。魔物、とでも思ったのかな?」

青年に向かってやさしく微笑んでみせる。この微笑の持つ効果を、私は熟知していた。予想通り、彼はいくらか安堵し、はにかんだ表情を見せる。

「そんな・・・あの、あまりにお美しいので、幻光虫が見せた幻かと・・・。」

容姿を褒められるのには慣れていたが、彼の偽りのない率直な反応は、美辞麗句を並べられるよりずっと好ましく感じた。

「いつもここで鍛錬を?」

「はい。ときどき。」

「君の名前は?」

「アーロン・・・と申します。」

「僧兵かい?」

答えが返るのに、一瞬の間があった。

「・・・はい。」

「嘘が下手だね、アーロン。」

青年の表情がこわばった。唇が振るえ言葉が出てこない。夜目ではっきり見えないが、おそらく顔色も相当変わっているであろう。

突然、彼は膝をつき、深く頭をたれた。

「申し訳ございません!」

やはりね。

思ったとおり彼はまだ正式な僧兵ではない。見習い兵は夜間外出禁止のはず。こっそり抜け出したところを僧官に見つかったとあっては、彼がうろたえるのも無理はない。それにしても何とわかりやすい男だろう。

汗の引かない白い背中の肩甲骨が、荒い息に合わせて上下している。

項でひとつに結んだ長い黒髪が、背から滑り落ちた。

不意に、この男を支配してみたいという欲望が頭に浮かんだ。

できるだけ感情を押さえた声で問う。

「規則を破ったことがわかったら、君はどうなるのかい?」

顔を伏せたまま、彼は掠れた声で答える。

「懲罰を受けます。」

「どんな?」

「鞭打ち10回と営倉入り3日・・・」

目の前の白い背中に、桃色の線が幾筋も浮き出る幻が浮かぶ。

裂けた皮膚からにじみ出る、鮮やかな緋色。

わざと少し顔をしかめて見せる。

「痛いのや閉じ込められるのは嫌だろうね。」

「それもありますが・・・」

彼は顔を上げた。

「同室の仲間も罰せられます。鞭打ち5回に早朝の僧堂清掃7日間。」

「ほう、随分と厳しいものだ。」

見習いといえども、彼ぐらいの歳になれば大部屋で雑魚寝ということもないだろうが、おそらく10人程度が寝起きを共にしているのだろう。同室の者同士が結託すれば、夜間忍び出るのはそれほど難しいことではないから、一蓮托生に罰する必要がある。また、当番制の早朝清掃を他の部屋の連中に押し付けられるとなれば、告げ口もあるに違いない。

彼がここに来るのは初めてではなさそうだから、それを承知で見逃してくれている仲間がいるのであろう。アーロンは彼らを巻き込むことを何より恐れているのだ。

今、思いもかけず私は彼の生殺与奪の権を握ってしまったことになる。

元より、寺院の規則など気にかけるつもりはない。告げ口などという無粋な真似も好む所ではないが、この男の反応には大いに興味があった。

真剣に私を見つめる切れ長な鳶色の目が、酷く愛しい。

沈黙に耐え切れなくなったのか、彼は再び頭を地面に擦り付けるようにして懇願した。

「お願いでございます。このことは寺院には言わないでください。俺で出来ることなら何でもしますから・・・ブラスカ様のおっしゃることなら何でも・・・。」

何でも?

私は彼の無防備さに軽い驚きを覚える。アーロン、そんな言葉を安易に口にしてはいけない。こんなことで君は私に全てを捧げるというのかい?「何でも」の中には、この場で私の目の前に全身の素肌を曝し、膝まづいて私の足を君の舌で清め、滾る私をその口に含み、その排泄物を受け入れることも含んでいるのだろうか。いや、この生真面目な男はやるかもしれない。驚き恥じらいながらも仲間のため屈辱に耐え、私の言うがままに奉仕してくれるだろう。

でも、私の欲しいものは違う。

私は、彼に自ら望んでその身も心も捧げてもらいたいのだ。弱点をつくようなあざといやり方ではなく、彼自身が悦びを持って私だけに尽くすことを希うように・・・。

青年の震える肩にそっと手を触れる。

「君の聖域に勝手に入り込んだのは私だ。誰に言うつもりもないよ。それに寺院のために技を磨くのは決して悪いことじゃないと私は思う。」

再びこちらを向いた目が、幻光虫を反射して赤く光って見えた。顔にいくらか生気が戻っている。

「そのかわり、と言ってはなんだけど、私はこの場所が気に入った。これから時々来ても構わないかな。それに君の剣技も見事なものだ。また見せてもらいたいね。」

アーロンの顔に満面の喜色が浮かんだ。

「は、はい!ブラスカ様、ありがとうございます。本当にありがとうございます。」

繰り返し繰り返し頭を下げる青年に、私は再び微笑みで応える。

そう、私は誰にも言うつもりはない。

でも、彼自身が進んで仲間を裏切り、寺院に事実を告げるのならどうだろう。

この私のために・・・。


それから何度か、私たちは泉のほとりで時を過ごした。

アーロンは17歳。18になれば正式な僧兵として寺院に配属されることになる。シンや魔物の脅威から、寺院と人々を護るのだと言葉少なに、しかし真剣に語る彼は、やはり幼い頃シンによって身内を奪われていた。孤児院で育つうちに剣技の才を見出され、僧兵となる道を選んだという。

あまり教養があるとは思えないが、分をわきまえた話し方ができ、端正な容姿を持つ彼が、今まで僧官や教官の僧兵から寵童として目をつけられなかったのは不思議だった。

いわゆる「お稚児さん」は、だいたい見当がつく。見目のよさや小才のきく性格はとにかく、どこか人を見下していたり、世の中を達観したような小生意気な態度が大なり小なり付いて回るのだ。私自身も経験者なのだから間違いない。あの頃のことは決してよい思い出とは言い難いが、それに見合うものは手に入れてきたので後悔はしていない。

だが、アーロンは大勢の中にいると、生来の生真面目さもあってその中に埋没してしまうタイプのようだ。自分でも気付いていない輝きを秘めた原石。無心に剣を振るい、泉に入って身体を清める彼の姿を目で追いながら、それをどう磨くか思案することが、私の愉しみとなった。

彼自身も、私の視線をあきらかに意識している。泉のほとりに私の姿を見出したときに見せる笑顔に偽りは微塵もない。鍛錬の途中にも幾度か私の方を振り返り、私が満足しているのを確かめて嬉しそうに笑う。本来なら目にもとめてもらえない僧兵見習風情が、高位の僧官とこのように親しく時を共有できる喜び。そして私と親しくなったと錯覚する者たちが共に示す敬愛と媚。彼のそれがどの程度のものなのか、確かめてみたい。


風もなくじっとりと汗ばむような夜、私は薄い一重の懐に小さな容器を忍ばせて泉へと赴いた。容器の中には小型の毒魚ピラニア、それも北方の極一部でのみ生息する猛毒を持つ珍種だ。寺院の隠された一室で飼われている魔物の中から、私はこの貴重な魚を慎重に選んだ。毒には速攻性はないが、普通の毒消し薬程度では歯が立たない。小一時間ほどで全身にまわり、確実に犠牲者の息の根を止める。この毒を浄化する秘薬があるのは、寺院の医局のみ。

ひどくばかげた、しかし刺激的な試みだ。私は暗い笑みを浮かべる。目論みどおりに事が運ばなければ、私は命を失うことになる。だが、そんなことには決してならないという確信があった。なぜなら、アーロンは必ず私のために自分が護ってきたものを捧げるだろうから。そして、もし彼が私を選ばないとしたら・・・青二才の僧兵見習風情を思い通りに支配することもできない自分など、生きている価値がないから。


鍛錬を終え、いつものように泉で汗を流すアーロンに、私は声をかけた。

「今日は暑いねえ。水浴びは気持ちいいかい?」

「ええ、あ、気がつかなくて・・・ブラスカ様もお入りになりませんか。俺が見張りをしてますから。」

何の疑いもなく返ってくる、予想通りの返答。

「では、そうさせてもらおうかな。」

懐の容器を確かめてから、サンダルを脱ぎ足を進めた。水辺の苔が、ぬらりとした感触を素足に伝える。

「あ、そこは滑りますからお気をつけて!」

アーロンがあわてて私の手をとった。無骨ではないが剣を握る逞しい手と生娘のようだと言われる書物に親しんだ手が重なり、指が絡み合う。青年ははっとしたように上気させた顔をそらした。

「どうかしたの?」

「い、いえ・・・あの、すみません。」

男の肌に欲情するのは、別に異常なことではないよ、と声をかけてやりたかった。

私の身体に直に触れたものが、男女を問わず示す正常な反応なのだから。

多量の幻光虫を含んだ冷たい水が薄物の裾を広げ、私の踝に、腿に、そして下腹部に纏わりつく。

「ああ、気持ちいいね。」

「そうですか・・・、よかった。」

アーロンは、向こうを向いたまま答える。

私は、そっと水の中で容器を取り出し、蓋を開いた。突然開放されて戸惑う風のピラニアを足先、心臓から遠い部分、でつついて刺激する。

「あ、痛っ!」

私の声に振り向いたアーロンの反応は、思った以上に早かった。

「ブラスカ様!動かないで!」

取り出した短剣を私から離れようとしていた魚影めがけて投げつける。狙いは過たず、希少な毒魚は幻光虫に分解されて消え去った。

「今のは・・・ピラニア?どうしてこんなところに?」

魚の正体を知っているとは、思いがけないアーロンの知識に舌を巻く。だが、それ以上の詮索をしている余裕は彼にはなかった。私の身体を抱き上げるようにして水の中から引き上げ、そっと地面に横たえる。先ほどまでの初々しい面影はない。訓練を積んだ戦士の顔。

「どこを噛まれました?」

「足の指を・・・」

じわじわと痺れを伴う痛みとともに、すでに傷口を中心に不気味な紫色が皮膚に広がりつつあった。

アーロンは素早く髪を結っていた紐をほどき、私の大腿部に巻きつけてぎゅっと縛る。長く真っ直ぐな黒髪が広がって、私の腿に触れた。濡れて冷たい感触。それが膝から脹脛、踝へと伝い、ふいに爪先を強く吸われるのを感じる。感覚が鈍くなりつつある傷口に、新たな甘い痛みが疼いた。身を起こし、口に含んだ血を吐き捨てるアーロン。二度、三度、同じ動作を繰り返す。そのたびに私を襲う苦痛と恍惚の波・・・。だが、それだけでは全ての毒を吸い出すには至らない。

意を決して振り向いたアーロンの唇は、彼自身が吐血したかのように赤黒く染まっていた。

「ちょっときついですが、我慢なさってください。あいつの毒には俺の薬は効かない。寺院までお連れします。」

その間にも毒はゆっくりと確実に私を犯しつつあった。熱い・・・熱い、のに額に冷や汗が流れる。

「ご無礼いたします。しばらくご辛抱ください!」

迷う様子は微塵も見せず、私の腕を自分の肩に回すと両腕で身体を抱え上げ、走り出すアーロン。若く逞しい腕と胸から、彼の体温と鼓動が伝わる。が、悪寒が次第に全身の皮膚の感覚を奪っていった。熱いのに寒い。全てが・・・順調だ。

「・・・アーロン。君が罰を受けることになる・・・。」

「構いません。」

きっぱりとした声だった。

「俺がいけないんです。泉の中にお誘いしなければ・・・、俺が・・・なんで俺が噛まれなかったのか・・・。」

声が途切れる。大人の男1人を抱えて走っているのだ。息も切れよう。動悸が早い。

「でも・・・」渇きに喉が詰まる。声を出すのが苦しい。だが、まだ確かめたいことがあった。

「友達は・・・君の仲間を・・巻き込んで・・・。」

「罰は、全て俺が受けます。仲間の分も。」

悲壮さは全くなかった。当然のような答えだった。

私の目に緋色の細い線が浮かぶ。何本も何本も重なって、白い肌を赤く染めていく。

端正な顔が苦悶に歪む。だが、その表情はどこか満足気で・・・大切なものを護り通した・・・喜びすら湛えて・・・。

私の全身を駆け巡る悪寒は、毒のせいだけではなかった。

私は激しく嫉妬していたのだ。

彼が身をとして護る仲間たちを。

彼に打擲を加える、僧房の監督官たちを。

彼が護るべきは、私だけ。

彼を傷つけるのも、私だけ。

「心配は、いらないよ・・・アーロン・・・」

全身がだるく、重く、意識が薄れていく。

闇に身も心も委ねる前につぶやいた言葉は、彼の耳に入っただろうか。


「もう大丈夫、すべて問題なしですな。」

「ありがとうございます、タオ先生。」

数日後、私は自宅に医局長自らの訪問を受けていた。スピラ中の薬物毒物を知り尽くし、並ぶもののない名医と言われているこの小柄な老人は、おそらく唯一私にとって頭の上がらない人物だ。寺院に入って20年、ほんの子供のころから彼には世話になっている。医者としての腕のみならず、人柄も申し分ないうえに、非情に達観した人生哲学の持ち主である彼に、教わったことは数多い。

「医局までたどり着かれたのが早かったのが幸いでしたよ。最初の手当てがよかったのもね。何となれば命、運がよくても足1本失っていてもおかしくなかったですから。」

「先生のお手当てのお蔭です。」

感謝の念をこめて、微笑む。

「しかし、奇妙ですな。マカラーニャにピラニアが出たなど聞いたこともない。立ち入り禁止のはずの医局付きの動物飼育棟からピラニアが1匹盗まれて探していたのだが、どうやらそれがそいつと考えるのが妥当なようだ。」

「その話は、私も聞きました。ピラニアを盗むなど命知らずもいいところですね。でも、これで行方がわかったことになるのなら、私としても不幸中の幸いです。奴はアーロンが始末してくれましたから。もっとも逆に断定する手がかりも消えてしまったということにはなりますね。」

「いや、まったく。いずれにしてもブラスカ殿がご無事だったのは何よりでした。」

「恐れ入ります。」

「では、私はこれで。」

立ち去りかけた医局長は、しばしその場に佇み、まだ言い残したことがあるというように振り向いた。

「ブラスカ殿。生きるに倦むには貴方はまだ早すぎるよ。」

「なんのことでしょう?」

「わしの杞憂であれば許されよ。貴方は確かにすばらしい才能をお持ちだが、人の命や心を軽くみているところがあるようだ。他人を軽んずるのは自分自身を粗末にするのと同じこと。わしは、いつか貴方が退屈まぎれに召還士となってザナルカンドに赴こうなどと言い出すのではないかと、不安なのだよ。」

召還士・・・当たらずといえども遠からずの指摘にどきりとする。そう、私は既にベベルの祈り子との交感を終えていた。純粋にスリルを求めて試練の間に入り込んだ人間など、私ぐらいのものだろう。とはいえ、未だ召喚に応えてもらったことはないのだが。

「ご心配召さるな。私はそこまで思い上がってはおりませんよ。まだ俗世に未練がありますしね。先生のように私を脅かしてくださる方がいらっしゃる限りは、生きるに倦むことなどありません。」

それに、今はちょっと面白いこともありましてね、とは言えなかった。医局長は本当に私のことを案じているのだ。私は少し神妙な顔になって頭を下げる。

「ですが、先生のお話は肝に銘じます。」

「ふん」

笑いともなんともつかぬ声を残して、老人は部屋を出ていった。


入れ替わりに、ドアをノックする者がいた。

ためらいがちの音に、私は待ち人が現れたことを知る。

「お入り、アーロン。」

そっと扉が開き、おずおずと青年が入ってきた。

「あの、ブラスカ様。お加減は・・・いかがですか。」

グレーの見習兵の制服に身を包み、髪をきちんと結った彼は、マカラーニャで会うときよりも目立たず平凡に見えた。このお仕着せの中に、あの逞しく白い肢体が隠されていようとは、確かに誰も思うまい。私はやはり運がいいのだ。

「ありがとう。もう大丈夫だよ。わざわざ見舞いに来てくれたのかい?」

「それもありますが、あの・・・お礼に・・・。」

突然、彼は床に身体を伏せた。

「ありがとうございます!部屋のみんなをお咎めなしにしていただいて。俺も謹慎3日だけで済みました。先ほどそれも終わりましたので、早速お礼に・・・。本当にありがとうございましたっ!」

まったく、いつも予想を越える反応を見せてくれる子だ。私は膝をつき、彼の顎に手をかけてそっと顔を上げさせた。目が潤んでいる。

「私は当然のことをしたまでだよ。君は私を助けてくれたじゃないか。本当なら褒章をもって報いたいところだけど、兵舎の規則もあるしね。この程度のことしかできず許しておくれ。」

「で、でも、俺のせいなのに・・・俺が誘わなければ・・・見張るといいながらお護りすることもできなくて・・・。」

涙で声が詰まっている。私はもう片方の手で彼の頭をやさしくなでた。なめらかな髪の感触、大きな鳶色の目、意外なほど柔らかな肌、もうすぐこれが全て私のもの。

「ではね、アーロン。お願いがあるのだけどきいてくれるかい?」

返事はないが、聞くまでもなかろう。彼の全てが「諾」と応えている。

「君のすばらしい剣技を見ているうちに、私も剣を習いたくなった。魔法だけでは身を守れないこともあるからね。どうだろう、ときどきあの泉の替わりにここに来て私に剣を教えてもらえないだろうか。」

さらに大きく開いた目からこぼれた涙を、指で拭き取ってやる。そうだ、アーロン。君は私だけを見つめていればいい。

「私から僧房の方へ夜間外出の許可をとっておくよ。この家には空いている広い部屋があるから、君自身の鍛錬もできるだろう。君にとっても悪い話ではないと思うが。」

「そんな・・・いいんですか?俺なんかが・・・。」

自分の身におきた「幸運」が、まだ信じられないという風情の彼に、だめ押しの一言。

「もちろん、君が嫌なら・・・」

「いえ!決してそんな・・・身に過ぎたお話で・・・でも、ブラスカ様、俺が正式に僧兵になったら、ブラスカ様ご自身が剣など使うことはありません。俺がお守りします。今度こそ必ず!」

「ありがとう。頼もしいね。で、いつなら来てもらえるのかな?」

「それは、もちろん今夜でも。」

今夜・・・ね。でも私はあせったりしない。今日はほんの始まり。時間はまだまだある。少しづつ確実に、君に私のものである悦びを教えてあげよう。

「では、僧房に使者を出しておこう。楽しみに待っているよ。」

「はい!ありがとうございます。では、あとでまた。本当にありがとうございます。」

何度も頭を下げながら、灰色の衣の青年は部屋を出て行った。

私の微笑みが少し暗くなる。

アーロン。

君にその色は似合わない。そのうち私が見立ててあげよう。鮮やかな緋色の衣装を。君の白い肌にはよく映えるだろうね。

私の心は、欲しかった玩具を手に入れた子供のように高鳴っていた。

・・・それも、これはかなり長く遊べることになりそうだ。






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